せめて一瞬の安らぎになるかな?
059:せめてこの一瞬だけ、その錯覚に溺れさせて
ざぁあ、と木々の枝葉の摩擦音は海の波調と似ていると思う。樹海などと言う言葉があるくらいだから、整備の行き届かぬ原生林などに立っていると海にいるかのように錯覚することもできる。行政機関は任務以外にも一息つけるようにちょっとした庭園が出来上がっていたりする。薬草の匂いがぷんと香り紅茶を思い出す。ライはブリタニア調と言われるこの庭園を気に入っている。ユーフェミアの掲げる行政特区日本は日本人を認めるが同時にブリタニア人の介入も赦した。発足者当人が、イレヴンつまり日本人とブリタニア人を区別しない場所にしたいと言っているから人々の住む家屋や生活習慣も和洋折衷でかなり混乱している。それでも一息つきたくなるのは人種の差に関係がないらしく馴染みやすいように庭園が設けられ、日本人もブリタニア人もそこで歓談したり茶をたしなんだりする。
ライは仕事を抜けて庭園にいた。もともと事務仕事は苦手だ。ギアスに翻弄されたとはいえ戦争の勝利を繰り返してきた自分はおそらく前線で戦うという体を動かす方が向いているのだろう。和洋折衷はライ自身でもある。いくら古の人であるとしても血液検査の結果はブリタニア人と日本人の混血。かき集めた情報をまとめるとそう言うことになる。今さら血筋にこだわる気はない。失った過去も取り戻した。ギアスを得る発端や眠りにつくまでの経路、目覚めの理由。ライの自己情報は徐々に埋まりつつあった。だがライはそれを人には言っていない。説明するのが億劫だし、そもそもこうして判明した理由の方が作り話じみて現実感がない。事実は小説より奇なり、である。だからライは記憶のことを訊かれるたびにちょっとずつだけど思い出しているよとお茶を濁した。
芝生の上に寝そべる。清潔な水を循環させて吹き上がる噴水が微かに見えた。きらきらと光る水粒が弾ける。昼間の熱気を存分に吸いこんでいる芝が独特の芳香を放った。掘り起こされたばかりの土の湿った臭いと芝独特の青臭いような植物の濃密に絡む臭いがした。石造りの家が多かったように茫洋と考えが浮かぶから、土や草はライにとって少し新鮮だ。
「ライ」
名前を呼ばれて目を上げる。のっぺりとした仮面がじっとライの方を覗きこんでいた。跳ね起きようとしてごちンと衝突した。
「ライ、ぶつけるな! 案外響くんだそ!」
ゼロと言う名をかたる彼の正体をライは知っている。
「判った、次は気をつける…それにしてもこっちも痛いよ、ルルーシュ」
びしっと額を指で弾かれた。
「ゼロだ」
何処で誰が聞いているかも判らないという意味の忠告だろう。行政特区日本を発足したユーフェミアも仮面を取ったゼロの正体がルルーシュであることを知っているはずだが、ギアスを二重にかけられた彼女は記憶があやふやらしく、ゼロの正体はおぼろげにしか判らないと周りに言っている。現場は二人きりであったからルルーシュの情報操作でどうとでもなった。
「何を考えていた」
ルルーシュが隣へ腰を下ろす。と、仮面に手を当ててとる。紡錘状をしたのっぺりと目鼻のない仮面が剥ぎ取られて眉目秀麗と言ったような綺麗な顔があらわれる。細い眉も大きな双眸も紅い唇も女生徒の人気を一身に集めていた裏付けでしかない。だがその左目は紅く両翼を羽ばたかせたかのような紋様が揺らいでいる。
「ちょ、いいのか?! ここは解放された庭園だぞ」
「整備中の札をかけてきた。貸し切りさ」
慌てて体を乗り出そうとするライを押しとどめてルルーシュがあっさり言う。
「いざとなればギアスで忘れてもらう。オレの能力もこんなことにしか使えなくなってきてな。嬉しいんだか哀しいんだか判らんな」
ライは嘆息してもとの位置へ腰を戻した。それを見てルルーシュは満足げだ。ルルーシュのギアスは同じ人間に二度は効かない。ライは一度愚にもつかないギアスをかけられているから、ギアスが暴走して発する言葉全てが命令になってしまうのを防ぐためにゼロと言う仮面をかぶり続けるルルーシュの、ほぼ唯一と言っていいほど素顔をさらせる相手でもある。C.C.もその一人だが彼女は馬に蹴られたくないからな、と言ってあまり顔を出さない。ライはどさりと芝の上に仰臥した。襟を弛める。釦を外すと白い肌が覗いた。ライの肌は白い。陶器のように冷たい白さではなくどこかぬくもりのある官能的な乳白色だ。亜麻色の髪を遊ばせているがその髪も、毛先へ行くほどに蜜色に透き通った。ライの双眸は薄氷色から群青や紺碧へと刻々と変化した。ライの感情や精神状態によって変わるのだ。ギアス発動時も変わる。
「お前は綺麗だな」
「うーん、ルルの方が綺麗だと思うけどな。女子に人気だったじゃないか、アッシュフォードにいたとき」
「幻の美形がよく言うな」
ルルーシュは濡れ羽色の黒髪ですっかり額を隠し、うなじへさらりと流している。ぱっちりとした眦は少しきつめに吊りあがり、双眸の色は紫苑色だ。彼が怒っているときや激昂している時など紫雷が走るように燐光が弾ける。顔の造作自体が上等なのだ。その眉や双眸、鼻梁や唇の位置も大きさも最適でこれ以上ないほどにちょうどよく収まっている。体つきも細いから、深窓の令嬢の男性版と言うところだ。見かけどおりに体力もない。ライはじっとルルーシュを見つめた。二人きりの時はルルと呼んでくれとルルーシュが言ったからライはそうしている。
ギアスの暴走の証。常に紅く両翼を羽ばたかせる紋様の揺らめく紅い瞳。
「ルルはどうして、僕にギアスをかけなかったんだ」
「愚問だな。お前がオレに打ち明けた時のあれが全てだ。他意はない。お前自身がそう心がけているならば必要ない。それとも、まだギアスをかけてほしいなどと言うか? もう絶対に出来ないというのに」
言われてみればその通りでライがむぅと唸ってから、バタンと芝生に突っ伏した。
「服が汚れるぞ」
背中についた葉片を払ってくれるあたり、ルルーシュの妹溺愛は想像に難くない。確かに学園にいた頃のルルーシュはスザクをからかい会長をあしらい、そしてナナリーを過度に気遣っていた。ナナリーに会えば判る。ルルーシュの溺愛ぶりがナナリーの言動から判るのだ。
ライにも妹がいた。もちろん守りたかったがルルーシュほど溺愛はしなかったように思う。それはルルーシュとライを決定的に分かつ。ルルーシュは妹を守るために世界を変えた。ライは人殺しを重ねた。父王を殺し兄皇子を殺した。その時にはライはすでに力に呑まれつつあった。だがルルーシュは力に呑まれてしまうまで力を使い、妹が安心して暮らせる世界を作ろうとしている。
「君にもう一度ギアスが使えたら…僕は君に、君の命令だけを聞く犬にしてくれって言うよ」
「理由は」
すぐさまルルーシュが切り返す。ルルーシュは頭の回転も速い。居眠りやさぼりが多いわりに学園では上位の成績を保持していただけの実力はある。ライの目がじっと蒼穹の空を眺めていた。あの中へ落ちていけたらな。
「僕が僕がいるのが少し辛い。ぼくの知りあいは完全にいないことが判った。でも学園できずいた知人がいるからそれはいいんだ、でも。僕の血筋は僕しかいないだろ? なんだか、錯覚でもいいからすべてを忘れてしまいたいと思ってしまう。今の僕の状況が変わるわけじゃないのは判ってる。それでも僕は僕であることを忘れてただ凡庸に暮らしていきたいと思う時があるんだ」
ルルーシュは応えない。じっと一点を睨んだまま動かなかった。紫雷を秘める双眸に睥睨されるのは怖いよな、と思う。睨むように見つめられる経験ばかりするライは茫洋とそんなことを考えた。綺麗が顔の人が怒った時は怖いとか。ルルーシュは初対面時は壁を感じるほど距離を取るが気心が知れればこれほど優しい人もいない。だからライはあえてルルーシュに訊いてみた。僕を君の奴隷にしてくれないかい?
「愚問だ。要らぬ世話だな。それともお前は犬になりたいのか? ご褒美をもらって喜ぶだけの? そんなわけはない。お前がそう言う奴ではないと、オレはよく知っているつもりだ」
ライの双眸が潤む。凪いだ湖面のように水輪が広がる。
「ルル、ギアスは錯覚だと思わないか?」
続きを促すようにルルーシュは黙っている。
「ギアスは確かに人を捻じ曲げる。でも、そのねじ曲がった錯覚が永遠に続く。永遠に続く錯覚はもう事実じゃないか?」
だから僕は、その錯覚に溺れてしまいたかったんだ
何も考えず、
何も志さず、
何も見ず、
何も感じず
「ライ、それは逃げだ。逃げをオレは赦さない。お前には逃げだすだけの弱点はない。逃げが必要な人間がいるのは事実だ。だがライ、お前は絶対に違う。オレには判る。お前はほらこうして、お前の惑いをオレに打ち明けている。解決策の一手だろう? つまり問題と向かい合っている。逃げてない」
ルルーシュの桜色の爪先がピッと走ってライの頬に紅い擦過傷を負わせた。そのまま白く細い指を亜麻色の髪に絡めては好くようにしてライの頭を撫でる。
「永遠に続く錯覚など、麻薬だ」
ルルーシュが遠い目をする。その双眸が何を見ているかをライは知らないし、訊こうとも思わなかった。
「麻薬でもいいよ」
こつん、と握りこぶしの関節で頭を殴られる。見上げるとルルーシュが微笑んでいた。差し込む光できらきらとちらつく。花粉や鼻梁な水滴が日光を乱反射しているのだ。
「綺麗だよ、ルル」
「オレにはお前の方がよっぽど綺麗に見えるがな」
芝生の水滴を吸った髪は蜜色に透けてライの首筋へ張り付く。潤みきった双眸が濁った群青から薄まる紺碧へ、煌めく薄氷色へと変化していくのをルルーシュは愉しんだ。
「まるでリフレインのようだな。永遠に続く錯覚。夢の中。理想。夢想。だがそれらに逃げることをオレは赦さないぞ、ライ」
ルルーシュの紫苑がじっとライを見据えた。
「お前は自分の過去と向かい合った。逃げても仕方ないことだ。知ってしまったことを忘れてはならない。それは罪悪だ。知は力なり。その力は好きにつけ悪しきにつけ働くものだ。知らぬふりなど、まして忘れることなど赦されない」
ふわりとライが微笑んだ。その笑みは慈愛に満ちて、赤ん坊を産んだばかりの母親のように子供を愛しむ聖母のように、優しく甘く毒を含んだ。ルルーシュはぞっとした。ライの闇の深さにたった今気付いたかのように、初めて知ったかのように、驚愕と戦慄に身を震わせた。
「ライ?」
「何だい、ルル」
眇められた薄氷色は奥に秘める色を隠す。薄淡い色がライの意志を隠す。
「お前はオレを助けてくれると言ってくれた。オレと同じ道を行くとも言ってくれた。…――嘘は、ないな?」
「ないよ。僕の行く先、それは君が目指すものだ」
ルルーシュの頬を冷や汗が滑り落ちた。ライが抱える闇が暗渠が垣間見えた瞬間だった。親兄弟を殺し、守りたかったものまで死なせてしまったとしかルルーシュは聞いていない。それがこの暗渠の正体なのか。だが親兄弟殺しの罪ならばルルーシュも負っている。ライはどれほどの――?
「君から錯覚という夢をもらえないのが残念だよ」
ライが体を起こしてルルーシュに口付けた。ふっくらとしたと感触とほのかな熱で融ける。互いの体温がその瞬間だけ行き交うような気がした。ライはすぐに口付けを終えると立ち上がり、パタパタと汚れを払った。
「ごめんね、ちょっとした発作的なものだから。もうないと思うし。気にしないでほしいな。それじゃ」
そのまま踊るように軽やかな足取りでライは庭園を後にする。残されたルルーシュだけが背筋が冷える想いと止まらない冷や汗に息を呑んでいた。
「ライ」
その名前と暗渠と闇と。境遇は似て非なるものである。判っているはずであった。それでも。
「お前の闇は、深い――」
意識していないつぶやきだった。一瞬の夢などでは埋まらない。一瞬の錯覚などでは誤魔化せない。それほどに。それでも、オレは君を。
「使わせてもらうぞ、ライ。オレはお前と言う駒を、お前と言う人格をとりこぼす心算はない」
ルルーシュの手がライが寝そべっていたあたりの芝生を撫でた。水粒はじくそこはひっそりと冷たかった。
《了》